東根温泉由来記
今を去る百有余年の往時、現在の温泉地区(当時は本郷地区)辺り一面は水田であった。
当地区には「丸清水」などの湧き水があったがその量は少なく、調法な河川が無かったため、普き灌漑(かんがい)には十分と云えず、例年のことながら難渋を繰り返す始末だった。
明治後期に及ぶと、水不足が甚だしくなり、明治42年(西暦1909年)は大干魃で、干し上がった水田に亀裂が生じる様で農家の苦悩は一方ならぬものがあった。
東根北ノ宿在住の天野又右衛門は、灌漑用水を得ようと、蔵増の堀師権七に依頼し所有田(旧元湯旅館の一隅)に鉄棒掘抜井戸試みたところ、微温水の湧出をみた。そこで権七は、更に深度を進めれば温泉の湧出も可能と推断し、又右衛門の長男正太郎(二代目又右衛門)に掘削続行を勧奨、又右衛門氏の長男正太郎は未だ23歳に過ぎなかったが、自ら意を定め資金を調達の上、父親にたっての願を盡し諒解をうけ、井戸を深く掘り下げることにした。工事は、鉄棒が粘着するなど難航を重ねたが、地下三十二間に及んで、遂に温度48℃、湧出量毎分2斗の優秀な温泉を掘り当てた。
時は明治43年(西暦1910年)庚戌歳旧暦6月8日(新暦7月14日)午後4時頃であった。
以来、温泉発見者、天野又右衛門の功績を称えその労を永く語り伝えると共に、数多の人々は天与の恵を感謝し出湯の恩沢に浴して、今日に至っている。
注1 一間は約1.8m
注2 1斗は約18リットル
【開湯八十年史話、さくらんぼ東根温泉由来記より抜粋】
成田不動尊について
果てしなく広がる耕田のまっただ中に、温泉が突如湧き出したため、その周囲には旅館や商店が道沿いに立ち並び始め、たちまちに集落ができあがっていきました。そうこうしているうち、東根温泉の名湯は評判を呼び、訪れるお客さんが年々増加してくると、旅館に住込み奉公するもの、商売を求め移住し来る者も多くなり、村の人工と世帯数が急激に増加しました。しかし、なにぶん部落を形成して日が浅いので、いまだ氏神の祭祀がなく、人々の精神的寄りどころがなかったために、住民の結集力を固くするのは難しかったのです。
そこで、不動明王の開眼供養を、真義真言宗智山派本山成田山新勝寺に依頼し、県に本郷説教所の設立願を提出、大正8年(西暦1919年)5月にその認可がおりました。翌9年(西暦1920年)7月にはお堂を竣工、かねてより本山成田山新勝寺において開眼新禱をお願いしていた不動明王尊像を新築した堂内に迎え、「成田不動尊」と敬称することになりました。
手水舎とポケットパーク足湯
昭和63年(西暦1988年)共同組合役員会で、環境整備の一事業として、住民の守護神である成田不動尊境内に、他所ではない温泉のお湯を利用した手洗鉢を設置してはとの貴重な提案がありました。その後協議を重ねながら、平成3年(西暦1991年)1月、関係者参列のもと工事着工の神事を行い、9月には手水舎の落成式が行われました。恐らく全国でも例のない源泉の湯を使用した手水舎であり、東根温泉の湯量の豊かさを象徴する施設です。
平成16年にはポケットパーク足湯が完成し、市内外の人が気軽に東根温泉を楽しめるようになりました。
さらに平成22年には開湯100周年を迎え、小川のせせらぎや季節の草花・樹木を整備した100周年記念造成公園「泉源の守」が建設され、温泉散策の拠点となっています。
※【参考】東根温泉 開湯八十年史話
昔の東根温泉街
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